先日、友人に手紙を書いたんです。
こんな風に、デジタルの文字ではなく、
便箋に、手書きで。
その場で思いついたことをつらつらと書く手紙は結構好きで、
大学時代の友人や元同僚など、親しい人には何かの節目でたまに書いたりしていました。
でも最近は、めっきり書く機会が減りましてね。
書くことがなくなったとか、時間がないとかもありますけど、
やっぱりデジタルの便利さがあるからでしょうかね。
メールとか、LINEとか。
書くのが早いし、圧倒的に楽。
修正も簡単。
ブログなんてその最たる例で、
一度UPしたとしても、何度も修正できますよね。
実は一昨日、このブログでも手紙を書いたんですけど、
UPしてから何度も修正しています。
あとからね、これも書きたいあれも書きたいこの表現ちょっと違った、みたいなことが出てきましてね。
(おかげで今は、最初のUP時から200文字ほど増量してお送りしております。笑)
何度も推敲したブログでさえも、修正したいところが何度も見つかるんだから、
一発で書いた手紙なんてそりゃ100%満足の内容になんてなるわけないですよね。
そんな風にして、その友人にあてた手紙は、
後から思い返して、とても直したくなりました。
だってね、その手紙、大きな節目に送った、大事な手紙だったからなんです。
しかもその友人は、私をとても支えてくれた、大切な人。
たとえば…
去年、私は父を亡くしたのですが、まあまあ複雑な家庭環境だったもんで、
死に目に立ち会えるかどうか、というところで色々とありまして…
(その時のことを記した記事、最後に貼りますね)
数日間、葛藤の中にいたのですが、その時ずっと話を聞いてくれてたのが、その人でした。
忙しい中、時間を作って…。
その人がいなければ、私はあの時もっと孤独で、もっともっとつらかったと思います。
それは一番印象に残っていることですが、いつも、何か特別なことをしなくても、
そっとそこにいて、ずっと支えてくれるような、とても大きな人。
なのに、その人ったら自分がそうやって私に施してること、絶対気づいてないんですよね。。
ものすごくいい人で、ナチュラルにgiveできる人だから。
それを伝えられなかったことに、ちょっと後悔。
いつももらってばかりだったのに、その感謝をちゃんと伝えられただろうか。
本当はもっと、あなたのここが素敵とか、
そんな素敵なあなたとこんな思い出を作れたことがうれしいとか、
普段は言えないようなことだからこそ、節目のタイミングで伝えたかったな…。
なんて、考えてたら、ふと思ったんです。
伝えるって何だろう。
伝えたいって、ただのエゴじゃない??って。
私の場合、伝えたい、ということは、
共有したい。
わかってほしい。
覚えていてほしい。
思い出してほしい。
そんなことが多いです。
考えてみるとこれって…自分の想いの押し付けなんじゃないか?って。
たとえば同じ時間を過ごしたとしても、
どの部分を切り取って、どんなふうに記憶に残すかは、それぞれで違う。
なのに、私の感情やどう思ってるか、みたいなことを共有したい、と思うことは、
どうなんだろうって。
相手に期待することになるんだろうか?って。
そう考えると、伝えることって自己満足なんだな、とも思いますね。
手紙だってきっとそうなんだろうけど、、
やっぱり、きちんと伝えたかったなぁ。
想いが大きければ大きいほど、
伝えたいことも大きくまとまらなくなって、
あれもこれも伝えたい!!ってなっちゃいますね。
たぶん私が陥ってるのはこれで、
後から思い返すと色んな想いがあふれてきて、
それを共有したくなってきちゃうんですよね。
だからこそ、前述のブログも何度も直してるわけで。笑
でも全部伝えようとするとすごい量になって逆に何も伝わらなくなる。
本当に伝えたいこと、コアみたいなのはそんなに多くないはずだから、
それがちゃんと書けてたら、それでいいのかな。
私が手紙でその人に一番伝えたかったのは、とびきり大きな感謝と、愛と、
「あなたが幸せであることが何より一番大事!」
ということ。
それだけは記したつもりだから、きっと伝わっていると信じて、
あとの不完全さは、もう仕方ないと思うしかない。
ぜんぶ完全に伝えようなんて、それこそきっとエゴだよね。。
伝えるって、難しいな。
なんていう、思考の垂れ流し、でした。笑
文中に出てきた父の記事はこちら。
UP時より200文字増量したお手紙はこちら。
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