少し前に読んだ、短編集。
その一つが、私小説のような、エッセイのような、作者が自分のことを語る小説だった。
その中に、とても印象的な言葉があった。
僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって、片端から謝りたくなってしまう。『すみません。あの、これ黒ビールなんですが』と
なぜ印象に残っているかは後でお話しするとして、まずはシーンの説明を。
これは、野球観戦中の、球場でのワンシーン。
ビールの売り子さんと、その作家さんのやり取りを表したもの。
野球観戦をしたことがある人ならば知っているだろうが、
球場のビールというのは基本的に売り子さんから買う。
球場の座席を練り歩く売り子さんを、近くに来た時に呼び止めるのだ。
しかし、球場は広い。
売り子さんは何十人もいるが、順番に歩いて行くから、なかなか来ないこともある。
来るのを待つのだから、タイミングを逸するとなかなかビールにありつけないシステム。
(もちろん売店でも買えるんだけどもね)
キリン、アサヒ、エビスなどメーカーも様々で、
贔屓ブランドがある人はその樽を背負った売り子さんが来るまで待っていないといけない。
その中でも黒ビールが好きで、黒ビールの売り子さんを待つ作者さん。
見つけて呼ぶと、こう言われるんだそうだ。
「すみません、これ、黒ビールなんですけど」
黒ビールを好む人はあまりおらず、
普通のビールを求めていたお客さんが「なんだ、黒ビールか」となってしまうことが多いからこその、彼のこのセリフなんだろう、そいう推測も添えられている。
そのセリフを聞いて、自分も小説を書いてて「すみません」と思うことを回想する作者さん。
なんてことないシーンだが、なぜ印象に残ってるかというと、
この本を書いた作者が、村上春樹だからである。
もう一度、例の文章を見てみる。
僕も小説を書いていて、彼と同じような気持ちを味わうことがしばしばある。そして世界中の人々に向かって、片端から謝りたくなってしまう。『すみません。あの、これ黒ビールなんですが』と
黒ビールの売り子さんが「すみません」と言っている理由とあわせてこの文章の意図を考えると、
それをめがけて欲しいと思う人はいるだろうけど、
他の多くの人には「なんだ、村上春樹か」と思われる、みたいなニュアンスも感じたり。
それにしても、村上春樹が、あの村上春樹が。
あんなに多くの人から支持・評価されている人が、
書きながら世界中に向かって片っ端から謝りたくなるなんて。
てことはたぶん、どんなにすごい物書きでも、
同じように思うこともあるんだろうな。
まして素人ならばなおのこと。
私がとても好きな文章を書くあの人も、圧倒的な文章を生み出すあの人も、
きっとほとんどの人が、どっかで思ってるんだろうな。
そう思ったらちょっとほっとした。
そりゃあ、私なら100万回思っても許されるな…と思ったのだった。
私は黒ビールどころか地方の名もないクラフトビールくらいなもんだけれど、
すみません、と思いながらも書き続けて、
これがいいんだよ、と言ってくれる人に届けよう、と思った。
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